由緒正しきおっさんの休日、「司馬遼太郎をゆく」です
今回は【街道をゆく24 近江散歩 奈良散歩】から
【国友鍛冶】です
滋賀県長浜市国友町、かつての「国友村」は室町末期から幕末まで鉄砲鍛冶の村として栄えました
一村まるまるその技能に従事していた村で、まさに「鉄砲のまち」です
国友町にある「国友鉄砲ミュージアム」を訪れました
「国友鉄砲ミュージアム」の前には車4台分ほどの駐車場があり、近場に第二駐車場もありました
かつての国友村は
都市のように道路が四方に通じ
家々が櫛の歯のようにならんでいた
そうで、江戸時代の最盛期には鉄砲製造をしている家が実に80戸もあったといいます
早速「国友鉄砲ミュージアム」を見学したいと思います
なんと(゜゜)!
館内に入るといきなり司馬先生の記事が貼り出されていました!
これにはびっくり・・!
私の「司馬遼太郎をゆく」は司馬先生の作品を読んで興味を持ち、自ら足を運んで自分で現地を感じてみるアクティビティなのですが・・大概は司馬先生にまつわるものなど在りはしないのですが・・
ここまでどっぷり司馬作品をフィーチャーしているとは・・!
これは司馬遼太郎ファンとしては最高に気分がアガルというものです(^^)
何より国友町の各所に、なんと五つもの「司馬遼太郎文学碑」が置かれているんです!
これには驚きと興奮が隠せませんでした・・!
上は「国友鉄砲ミュージアム」の前に置かれていた文学碑です
館内を見学していきましょう
入り口近くで10分程度のシアターが展開されていて、国友村について分かりやすく映像で説明してくれました
二階に上がるとたくさんの鉄砲が展示されています!
すごい数ですね・・・
それにしても鉄砲の大きなこと・・!
モノによってはめちゃくちゃ太いやつなどもあって・・あんなのどうやって撃つんだ・・?と思ってしまうものもありました・・・
元々国友村には腕利きの鍛冶がいたそうですが、なんと種子島に鉄砲が伝来した僅か一年後に、国友村で国産の鉄砲二挺が完成したと言いますから驚きです・・・!
薩摩の種子島に鉄砲が伝来するのは、天文十二年(1534)八月である。
ところが、『国友鉄砲記』によると、伝来してわずか一カ年で、国友村で二挺が完成した、という。
信じがたいほどのはやさだが、前後のことから考えあわせると、ほぼ本当のようにおもえる。
『国友鉄砲記』によると、
種子島の島主時堯はポルトガル人から得た鉄砲を島津義久に贈り
島津義久から京の将軍足利義晴に贈られ
足利義晴が侍臣細川春元に「これをつくる鍛冶はいないか」とさげわたし
細川春元が北近江の守護職・京極氏に相談、
自分の領内に国友村という優れた鍛冶村があると回答
天文十三年二月に「モデルガン」を一挺村にさげわたすと・・
なんとその僅か6か月後の八月十二日に作り上げてしまったそうです・・!
この当時は「ネジ」という思想が無く・・鉄砲の銃身の後部の塞ぎがねじ込み式になっていたがそれを作るのには腐心したことでしょう・・
そしてその「ねじ」を試行錯誤で作った若者が「国友次郎助」であり先出のミュージアム前の石碑にも司馬作品のそのくだりが刻まれていました!
ミュージアムからほど近い場所にある二郎助屋敷跡、「螺子発明の地」碑。
国友鍛冶によりつくられた鉄砲は将軍に献上されたものの・・なかなか買い手は付かなかったと言います
そこに登場するのが、そう!
織田信長!
信長は年少の頃、橋本一巴という人物に鉄砲を習ったといいます
後に信長はその橋本一巴を通じて江州国友村に「六匁玉之鉄砲五百挺」を注文しました
天文十八年(1549)七月十八日、鉄砲伝来から6年後の事であります
僅か6年で、国友鍛冶は500挺もの鉄砲を作り織田信長に売ったという・・・まさにものづくり日本!を象徴するような技術ですね・・!
この若き信長による鉄砲の買い付けにより、国友村は鉄砲生産の基礎が出来大いに繁盛したといいます
面白いのが北近江の国友村の国主ははじめ京極氏で、ついで浅井家、でありながら
国友村は経済的に織田家と結び付いていたという・・・
面白いですね・・・
館内には実際に鉄砲を触ってみれる展示もあって、私も実際に持ってみました
重い!
というのが率直な感想・・!
私が非力なせいもありますが・・非常に重い・・!
こんなものを担いで・・弾込めて照準合わせて着火して・・なんて一発撃つだけでも重労働です・・!
改めて昔の人の重労働ぶりを実感するのでありました・・・
村の入り口というか中心部に「国友町会館」があります
その前の川に設置されていた「司馬遼太郎文学碑」です
先ほども触れましたが、司馬遼太郎文学碑が五つも設置されており
この文学碑を回るだけで「街道をゆく」が読めてしまうんじゃないか・・と思うくらいです・・笑
国友源重郎商店前
作品の中でご婦人が司馬先生を邸内に案内するくだりに登場する場所ですね!
因乗寺の裏手の文学碑
そしてミュージアムはす向かいの住宅地前
5つ全てコンプリートです!笑
そして鉄砲鍛冶職人でありながら西洋の科学技術にも精通していた人がまたすごい!
一貫斎国友藤兵衛
国友一貫斎は天明8年(1778)の生まれ。国友鉄砲鍛冶の中で福リーダー的な「年寄脇」である国友藤兵衛家に生まれ九代目藤兵衛として評判の良い鉄砲を製造していました
腕利きの鉄砲鍛冶として鉄砲を製造しながら、当時の知識人や技術者との交流をし、西洋の科学技術に関する知識を習得。反射望遠鏡やエアガン、照明器具等の機器までも製造してしまったという人であります!
なるほどたしかに・・素人的には鉄砲の筒と望遠鏡の筒は製造過程が似ているような気がします・・・
そして自ら製造した反射望遠鏡で天体観測までしてしまう人でありました・・!
天体観測をし、月のクレーターや太陽の黒点などまで詳細に記録しているという・・今でいうところの一種の「ヲタク気質」を持った方だったのかも知れませんね・・^^;
日本人初の太陽黒点の連続記録をした人、が滋賀県長浜市の国友町にいました!
その期間一年二か月、回数にして212回だそうです・・!
これを記念してか・・一貫斎邸前には天体観測のモニュメントも設置されておりました
「風の時代」に入ったと言われる2024年の現在・・いわゆる「魂の時代」宇宙に通ずる時代に回帰するような面が出て来ていますが・・そんな時代に天体観測の先覚者を訪ねるという奇縁といいましょうか・・これも何かの導きなのか?なんて思うのでありました・・
そして私が最も興味を惹かれたのがこの「飛行機」!
見てください、完全に鳥!鷲かなんかああいった鳥そのものなんです(^^)!
この鷲のような鳥のボディにコックピットがあり、椅子が設置されています・・・
いや~・・・やっぱり発想が違いますね~^^;!
そんな「国友村」は非常に面白き町でありました(^^)
皆さまもぜひ、一風変わった滋賀県は長浜観光を楽しんでみてはいかがでしょうか
入館料一般300円。
JAF会員割引で団体料金で見学出来ました(^^)
@滋賀2024