群馬県吾妻郡嬬恋村の「鎌原地区」には【日本のポンペイ】とも呼ばれ
江戸時代の浅間山の大噴火で一瞬にして土石で埋め尽くされてしまった村がありました
その大災害により一瞬にして477人の尊い命が犠牲になった一方で、江戸時代の暮らしが土砂の中にパッケージされ・・当時の暮らしぶりが発掘され学術的にも貴重な歴史資料となっています
その「鎌原地区」で石段の上にあった「観音堂」に避難した村人93人だけが助かったと言われる【鎌原観音堂】を訪れた記録です

「鎌原観音堂」を訪れた際に、まずは事前知識を入れてから見学しようと考え先に【嬬恋郷土資料館】から見学することにいたしました

鎌原観音堂に隣接して綺麗な白い史料館がありました
同じく白い観音様の像も建立されておりました

なぜ「日本のポンペイ」と言われるのか・・・
イタリアのポンペイは西暦79年のヴェスヴィオ火山の噴火によって、町全体が火山灰に飲み込まれました
そしてこれと同じ事が江戸時代の日本にも起こり、天明3年の浅間山の大噴火で巨大な土石流れによって鎌原村を一瞬にして飲み込んでしまったのです・・・
どちらも避難する間もなく一瞬にして町が土砂に飲み込まれてしまった点と、そしてそのことにより当時の生活空間がそのまま土砂の中にパッケージされてしまったという点が共通しており、ポンペイと鎌原地区は比較して見られるのです

入館すると館内にはその「ポンペイ展」のチラシが・・過去に開催されたものでしたが掲示されておりました

ポンペイと鎌原地区を比較しながらの説明が綺麗に展開されておりました

さあ、さっそく館内を見学いたしましょう
受付の方に「まずは二階の映像をご覧ください」とお勧めされ、それに従って説明映像を見てから展示を見学することにいたしました

浅間山はこれまで数多くの噴火活動を経て現在のカタチになっているそうですが・・
記録として残っているのは天仁元年(1108)と天明3年(1783)の二度の噴火だけだそうです

天明3年の浅間山の大噴火に関しては古文書などの資料が残され、その被害状況がある程度明らかになっているそうです

1783年(天明3年)、浅間山は数ヶ月にわたって激しい噴火を繰り返しました。そのクライマックスとなったのが、8月5日に発生した大爆発です。

この噴火で最も特徴的かつ恐ろしかったのが、溶岩や土砂が崩れ落ちて発生した「鎌原土石なだれ」です。これは土砂が水を含んだ泥流とは異なり、熱い岩石や火山灰が猛スピードで山を駆け下りる現象で、麓の鎌原村をわずか数分で飲み込みました。その後、土砂は吾妻川から利根川へと流れ込み、各地で甚大な洪水被害を引き起こしました。

また、空高く吹き上がった大量の火山灰は日光を遮り、冷害を招きました。これが全国的な凶作につながり、歴史に名高い「天明の大飢饉」をさらに深刻化させたと言われています。一つの山の噴火が、当時の日本の社会や経済を根底から揺るがした、地質学的にも歴史学的にも非常に大きな事件でした。

CGによる再現映像です

山体崩壊による土石なだれは時速100kmもの速さで村を一瞬にして飲み込んだそうです・・・
噴煙は成層圏にまで達し日光を遮り、歴史の授業でも習った「天明の飢饉」を引き起こしました

鎌原村を襲った土石なだれによる犠牲者は477人・・・
生存者は「鎌原観音堂」に駆け上った人を含めて僅か93人だったそうです

その後時代は下り・・
昭和の発掘調査で「鎌原観音堂」に上る階段は全50段であったことが判明

村全体は5m~6mの土石なだれに埋め尽くされていたそうです・・・
そして・・・

その石段の登り口で二名の犠牲者が発見されたのでありました・・!

昭和54年の発掘調査で、階段下で折り重なるようにして倒れた二人の女性の遺骨が発見されました
諸説ありますが一人は年配の女性、もう一人は中年女性と言われ・・親子とも姉妹ともみられているそうです

こちらが骨格から復元した二人の女性像です

そこには若い女性が年配の女性を背負って逃げようとしていた姿がありました・・・
石段は現在地上に出ている部分は15段ですので・・生死を分けた「35段」に考えさせられるものがありました・・・

ポンペイに関する展示もされていました

こちらも有名な・・逃げようとしていた人が発見された姿のレプリカです・・・
まさに逃げようとしていた姿が一瞬にして「保存」されてしまった臨場感に怖さを感じます

さて「嬬恋郷土資料館」で事前学習をした後に、実際に「鎌原観音堂」を訪れます

こちらにも天明3年の浅間山噴火について説明版がありました

このアプローチの下が・・かつて石段が続いていた部分になりましょうか・・
その先に赤い橋が見えます

赤い橋を渡り「15段」の石段を上がったところに観音堂があります

そしてこの赤い橋の下が・・先ほど映像で見た発掘現場・・

この下を掘り進んでいったところが先ほどの「現場」になりましょう
合掌ー。

地表に残った15段の石段を上がって観音堂にお参りいたします

鎌原の人々は残された人同士で新しい家族を作り互いの悲しみを乗り越えて、共に力強く生きていく決意をし村を復興していったそうです
鎌原観音堂のパンフレットに記載されていた文章をご覧ください

鎌原は、天明3(1783)年の土石なだれ「浅間押し」によって壊滅的な打撃を受けました。生き残った93人は、身分財産に関係なく一族の契りを結び、平等にしました。力を合わせ、近隣の村々の手厚い支援を受けながら、埋まった村を少しずつ再建してきました。噴火のあったその年に家屋11軒、30年後の文化10(1813)年には、21軒になりました。86年後の明治2(1869)年には、現在の主だった家屋が再建されました。復興には約100年かかっています。
昭和54(1979)年に学術発掘調査がありました。隣の郷土資料館では発掘品等展示し、当時の噴火の様子を紹介しています。観音堂には、多くの参拝者や観光客がみえています。地元観音堂奉仕会が、訪れる人々にお茶をふるまい、温かく迎えています。また、当時のことを未来へ語り継いでいます。

日本の面積は世界の陸地面積の僅か0.27%だそうでして・・・
それにも関わらずご周知の通り小さな島国日本は火山大国・・実に110もの活火山があるそうです
そのような世界に類を見ない場所に住んでいる私達は史上常に自然災害に見舞われてきました
それによる悲劇も歴史に多々残っている一方で、その恩恵を受けて生きて来たという両面があります
「鎌原観音堂」は残された遺構から何を学びどう活かしていくのか・・それを考え、伝えてくれる場所でもある、そんな気がいたしました

かねてから訪れてみたい場所のひとつだった「日本のポンペイ」
その遺構に触れまたひとつ見識が広がり有意義な時間となりました
地質や火山にご興味のある方には大変興味深い「鎌原観音堂」、そして「嬬恋郷土資料館」だと思います
ぜひ足を運ばれてみることをおススメいたします

今回もお読みいただきありがとうございました
感謝してます

PR