群馬県高崎市倉渕町権田の【小栗上野介忠順終焉の地】を訪れました


烏側の脇の田園地帯にのぼりがはためいているのが見えました
あそこに【小栗上野介忠順終焉の地碑】が建てられているようです

上州権田村・・
ご周知、幕末に活躍した幕臣・小栗上野介
1860年に日米修好通商条約の批准書交換のため渡米し、帰国後は外国奉行や勘定奉行などの要職を歴任して幕府の中枢で活躍しました
特に彼が提唱・建設した「横須賀造船所」は、後の「日本産業革命の地」と呼ばれるほどの偉大な功績として知られています
1868年の戊辰戦争の際、新政府軍への徹底抗戦を唱えましたが容れられず罷免され、領地であった上野国権田村(現在の群馬県高崎市)に隠棲しました
しかし、地元の暴徒を撃退した件などが「謀反の企て」と言いがかりをつけられ、新政府軍によって捕らえられ、42歳の若さで罪なくして斬首(刑死)されてしまいます

たはめく旗のマークは小栗家の家紋でしょうか・・
なかなかの強風にてはっきり写っていませんが・・どうやら波が激しく弾けるような紋章のしょうです

このような家紋のデザインは珍しいですね・・
家紋というよりは現代の会社のロゴであったり・・斬新なイメージです

高崎市指定史跡
【小栗上野介忠順終焉の地】碑

碑文「偉人小栗上野介 罪なくして 此所に斬らる」

慶応4年(1868年)閏4月6日の午前11時頃(四ツ時半)、小栗と3人の家臣(荒井千之助、鈴木菊次郎、塚本丑之助)は、小栗が隠棲していた権田村の東善寺から粗末な駕籠に乗せられて刑場であったここ烏川の水沼河原へと引き出されました
この時、新政府軍の監軍から「何か言い残すことはないか」と問われた小栗は、自らの命乞いは一切せず、従容としてこう答えたと伝えられています
「私自身には言い残すことは何もない。ただ、母と妻、そして息子の許婚を会津へ逃がしたが、彼女たちには何の罪もないので、どうか見逃してやってほしい」
自分の死を受け入れながらも、残される婦女子の身を最後まで案じていたといいます
処刑の直前、小栗は「せめて最後に見事な切腹をさせてほしい」と武士としての名誉を重んじた要求をしましたが、新政府軍はこれも拒否し、斬首を命じました
刑場に引き出された小栗は、取り乱すこともなく、非常に落ち着いた態度で刑を甘んじて受けたといいます。そして、家臣3人とともに河原の露と消えました
享年42歳

その後【小栗上野介忠順終焉の地】から約4kmほどの、車で5分ほどの場所にある小栗隠棲の地「東善寺」を訪れました

来年令和9年(2027年)のNHK大河ドラマは「小栗上野介」だそうです
現在令和8年の6月ですが、これから大河効果でたくさんのお客さんがこちらを訪れるのではないでしょうか(^^)

非常にアツい和尚さんの解説をお聞きしつつ・・拝観料200円をお支払いしいざ見学に
話が前後しますがお堂の中にも貴重な史料が保管展示されている他、広間では小栗上野介にまつわるビデオ映像も視聴させてくださるということで楽しみに拝聴しましたが
てっきりオリジナル映像かと思いきや・・以前BSで放送されていた「片岡愛之助の解明!歴史捜査」という番組の録画でした^^;
私も好きでこの番組ほぼほぼ見てたので・・小栗上野介の回も視聴済みです^^;
この番組にこちらのご住職が出演されていたんですね~
なるほど番組内でもアツく、解説をされていらっしゃいました^^;

境内には小栗上野介の像が建立されていました

非常に秀麗なお顔立ちですね
さすがは高級旗本というか・・エリート「キャリア組」たる雰囲気があります
勝海舟からすれば「お高くとまった役人」に見えたのも解らないでもない・・ですね・・笑

小栗上野介と言えば幕末マニアとして特に印象的なのが万延元年1月の「ポーハタン号」遣米使節団
それに先んじて「護衛艦」の「咸臨丸」に勝海舟、福沢諭吉、ジョン万次郎らが乗船しアメリカに向かいました
そしてその直後の3月3日には「桜田門外ノ変」、大老・井伊直弼が暗殺されました

【井伊大老首級水戸携行説】@妙雲寺「大老井伊掃部頭直弼台霊塔」万延元年(1860)の幕末の大事件【桜田門外の変】によって暗殺された大老井伊直弼 その首級が密かに水戸に運ばれていたという説があります...

この辺りの事が整然と進んでいくような安政~文久への流れは非常に興味深く着目するところでありますが・・
誤解を恐れず私の興味の本質を申し上げると・・・
小栗上野介忠正公はこちらのお墓に眠っているのか?ということです

小栗上野介の胸像の向かいには「小栗公遺品間」が設けられ、ゆかりの品々が保管されておりました
多くの遺品やゆかりの品は新政府軍が没収して行った為に残されていない・・といった説明書きもあったと記憶していますが・・これもまた・・・
それが全てじゃないように感じるのは私だけでしょうか・・・

栗本鋤雲の銅像も同じ敷地に建っていました
これは小栗上野介の盟友として横須賀造船所建設を支えた人物としてだけでなく、二人は少年の頃からの幼馴染でもあったようですね

さて、お寺の背後の山を登って小栗公のお墓に参りたいと思います

なかなかの急こう配を登ります・・
ちょっと息が切れるくらいの登りでした・・・

到着です

先ほど訪れた烏川での斬首について書かれていました

慶応4年(1868年)閏4月5日、新政府軍(東山道総督府の軍)が、小栗が隠棲していた権田村の東善寺に押し寄せました
小栗は一度は村人らの勧めで近くの山間部に避難していましたが、「村に迷惑をかけたくない」と寺に戻り、潔く新政府軍の縛りにつきました
驚くべきことに、捕らえられた小栗に対して一切の取り調べや裁判(糾問)は行われませんでした
新政府軍にとって小栗は「非常に頭の切れる危険な敵」であり、生かしておけば必ず脅威になると恐れられていたため、最初から「殺すこと」だけが目的だったと言われています

というのが巷間伝えられている通説です
説明版に書かれている、首級館林話ももう少し掘り下げてみましょう

新政府軍は、小栗の首を「朝廷に反逆を企てた」という無実の罪状を書いた高札(看板)とともに、青竹に刺して道端に晒し(さら(し))にしました
その後、首は新政府軍の陣営があった館林(現在の群馬県館林市)へと送られ、現地の寺に埋められました
一方、首の無い胴体は権田村の東善寺の裏山に葬られました
小栗を深く慕っていた地元の村人は、この理不尽な扱いに憤り、なんと翌年(1869年)の法要の夜、館林の寺から命がけで小栗父子の首級を盗み出して権田村へと持ち帰ったのです
そして、東善寺の胴体が眠る墓へ一緒に埋葬し直しました

つまり取り戻した首級と共にこちらに眠っていらっしゃるということになります

小栗上野介と言えばフィラデルフィアにおける金の比重の不平等を論破した通貨交渉ですよね!
この交渉によって不当なレートを是正させ、国益を守ることに成功した小栗はアメリカ人にとって日本人など「東洋の遅れた未開人」という偏見を一変させました
小栗が感情に流されず、「実験データ」と「正確な数理」で理論的に追い詰め彼らは脱帽します
東洋から来たサムライたちは優れた知性がある事のみならず・・極めて優秀なタフ・ネゴシエーターであることを認識させることになりました
小栗上野介が世界に対して日本の知性を示した場所、がフィラデルフィアでした

そんなフィラデルフィアに実は小栗が秘密裏に隠棲していた・・という説もあるようです
都市伝説的な話ですが、有名なのは「本能寺の変」の後極秘に欧州(イタリア)に渡っていたとされる織田信長公の「ジョルダーノ・ブルーノ」があります
福井県の小浜から、なんと明智光秀が極秘に船を用意して信長を欧州に逃がしたとされる説です
小栗フィラデルフィア隠棲説には信長のように後の本人の写真じゃないか・・とされる肖像画などは無いようですが・・上記フィラデルフィアにおける人脈とコネクション、それから横須賀造船所関連のフランスとの関係性から奥州を経由しての渡米、フィラデルフィア隠棲説が囁かれているようです
斬殺時の状況としても、
「何の取り調べもないまま処刑された」
「首級は館林に持ち出された」
「胴体だけが埋葬された」
等々・・遺体の確認にまつわる不透明さも「身代わり処刑説」が起こる一因となっているようです・・

小栗公が斬殺などされておらず、フィラデルフィアに隠棲していたかどうかは別として・・
私が考えるところは、小栗公ほどの逸材を何の取り調べもなく本当にただただ殺すべくして殺したのか・・という点です
私が思うところは小栗公ほどの人物は、いわゆる旧幕府軍×薩長新政府軍、などという範疇になどいらっしゃらない人物の一人ではないか・・という部分で、もっと高次な「幕末」にいらした方だと考えているのです
つまりここで斬首はされていない、と思うのです
フィラデルフィアかどこかは別として、明治の世でも表には見えない場所でこの国の国益を守ってくれていた
そう思いたいのかも知れません^^;
皆さまはどう、思われますでしょうか
バカバカしいとんでも論、と一蹴されますでしょうか(^^)
いずれにしても歴史ロマンを搔き立てられる面白さがある
【小栗上野介忠順終焉の地】探訪でございました

最後までお読みいただきありがとうございました

感謝してます

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