群馬県北群馬郡吉岡町に群馬県指定史跡【三津屋古墳】があります
「三津屋古墳」は全国的にも珍しい八角形をした「八角墳」で、古墳時代の晩年の7世紀後半に造営された古墳と考えられています
場所は榛名山の東麓、利根川右岸に広がる河岸段丘に位置し、住宅地の中にありました
今回はその「三津屋古墳」を見ていきたいと思います

三津屋古墳

「三津屋古墳」は、群馬県北群馬郡吉岡町に所在する、7世紀後半に造営されたと考えられている八角墳です

平成6年(1994年)に土地区画整理事業に伴う発掘調査が行われたことで、全国的にも極めて珍しい八角形の墳丘を持つ古墳であることが判明しました
発掘調査後の平成7年(1995年)に群馬県指定史跡に指定され、現在は「三津屋古墳史跡公園」として復元整備され、一般に公開されています
復元整備された八角墳としては、この「三津屋古墳」と奈良県明日香村の「牽牛子塚古墳」の2例しかない貴重な八角墳だそうです

「三津屋古墳」の特徴

  • 二段築成の八角形墳:下段(基壇部)と上段(墳丘部)から構成される二段構造の八角形をなしています

  • 規模:墳丘対角間で約23.8メートル、残存高約4.5メートル、八角形の一辺の大きさは下段で約9メートル、上段で約6メートルです

  • 外観と葺石:墳丘の斜面全体および平坦部には河原石を用いた葺石が緻密に敷き詰められており、八角形の直線的な面と角が際立つ景観を持っています

  • 周溝:墳丘の周囲には、八角形の形状に沿う形で二段の周溝が巡らされています

復元された「八角墳」

実際に訪れてみると、その八角形の様相からか・・何か要塞感をすごく感じました^^;
葺石で覆われた往時の姿が復元されているせいか、普段「古墳」としてイメージするものとはまったく異なる気がして思わず、おお・・・と感嘆の声を上げてしましました・・

まるで宇宙のスペースコロニーのようです・・

横から回り込んで上の方へ登ってみましょう

背中側?に回り込んでみました

おおお・・(゜゜)
少し見下ろす角度になって、八角形の片鱗が見えます!

真上からじゃないのでこれが限界ですが・・
なるほど、八角形の姿が見て取れました!
これは確かに珍しいですね・・!
というか初めて見ました

「三津屋古墳」から車で10分程の所に「吉岡町文化財センター」があります
そこで「三津屋古墳」のガイダンスがなされているのですが、上空から撮影された資料が展示されていました

これくらいの上方の角度から見ると八角形がよく分かります!

こちらが「三津屋古墳」の平面図です

見学出来る石室

「三津屋古墳」の石室の入り口には扉が設置されていて、施錠されていて特別な日時にしか見学出来ないのかな・・と思っていたら・・

ドアノブを回すと普通にドアは開きました^^;!
どうやら内部も見学出来るようです!

うわっ、(゜゜)すごい・・!
石室内がライトアップされていて・・こんなに綺麗に保存管理されていました!
外観からは想像が出来ない光景が広がっていました

石室は破壊されていたそうですが・・復元保存をしたのでしょう・・ライトアップもされて見学が出来るようになっていました!

奥壁石や側壁根石の抜き取り跡から一部切石を用いた自然石乱石積の横穴式両袖型石室だったとされているそうです
副葬品は盗掘を受けた為残っていなかったようです・・
もし副葬品も残っていたならば・・また一段と当時の詳細を紐解く鍵となっていたことでしょう・・!

盛り土の土層がそのまま展示されているのは珍しいそうです!
ここにも普通の古墳との違いが垣間見えているようですね

関東にある「八角墳」から見えるヤマト王権

さて、この「三津屋古墳」
いわゆる古墳時代も終わりに近づく7世紀後半に造営されたと考えられているそうですが
巨大古墳の時代から集合古墳が造営される時代に移り、7世紀中ごろ~8世紀初頭にかけて「八角墳」が造営されるようになったと思われます
第34代舒明天皇の頃だと思います
その前後の時代を少し考えてみるとしましょう

6世紀の終わりにそれまでの応神王朝が終わりを告げ・・継体王朝が成立します
一説によるとその前の武烈天皇で天孫族の神武王朝が断絶し、継体天皇から出雲神族王朝に変わったという話があります
この継体王朝が成立後、第29代欽明天皇の時代から百済色が強くなったと言われており、第33代推古天皇の時代に飛鳥寺が建立し、聖徳太子が活躍する時代となりその後舒明天皇の時代になって八角墳が造営されるようになりました
その後672年の古代史最大の乱とも言われる「壬申の乱」へと時代は下って行きます
これに勝利した大海人皇子が第40代天武天皇となる激動の時代です
ところで伊勢神宮を創建したのは第11代垂仁天皇の頃だというのが伝承ですが・・実際には飛鳥時代の天武天皇だという説があります
実際には飛鳥時代に、現在の伊勢神宮の基礎が整えられていったという説があり、そしてまた「古事記の編纂」も天武天皇の時代に開始されました
このような時代背景の中で造営されるようになった八角墳は、畿内の天皇陵に代表される古墳であり、海人系皇統を復元した時代に多く造られるようになった古墳だと言う事も出来そうです
そのような飛鳥時代の畿内における歴史的な動きがあった時期に造営された関東の「八角墳」、「三津屋古墳」にはどのようなことを物語っているのでしょうか・・・
それまでの大型古墳、前方後円墳から小型化し、集合していく古墳
古墳時代の終わり近くの古墳の「トレンド」の中で、特別な埋葬者だけの「八角墳」であったならば・・関東にもそうした天皇に準ずる「特別な人」がいたということになりましょう
関東の豪族は中央政権であるヤマト王権と密接な関係があった、というのが通説だと思いますが・・私の中ではヤマト王権と近しい関東の豪族、ではなく
ヤマト王権そのものであった
と考えています
その理由は「三津屋古墳」のみならず近隣に点在する古墳の畿内の古墳との類似性、葺石で覆われていたり、古墳の造りそのものが同じであったり・・・
私が考えるこの地域の豪族とは、畿内のヤマト王権そのものであり、中央のヤマト王権の軍事基地が置かれていた場所であった、と考えています
馬の産地・育成地であり、軍馬の基地を置いていた重要拠点であったのではないかと思うのです
「八幡」=「騎馬民族」、第15代応神天皇=「八幡」の「8」
時代が下ると共に古墳のトレンドも「小型化」し、その中でも特別な墳墓に八幡の「8」を取り入れたのではないでしょうか
そして関東のこの地は中央ヤマト王権の重要拠点そのものであり、中央と近しい別の豪族、などではなかったのでは・・と思うのです
皆さんはどうお考えになられますでしょうか・・

おわりに

そんな妄想?を抱かせてくれる群馬県は吉岡町の「三津屋古墳」は非常に興味深い古墳です
その古墳の形状そのものだけではなく、そこから紐解く古代史ミステリーが楽しめる歴史好きにはたまらないスポットのひとつと言えそうです
前述した「吉岡町文化財センター」でより理解が深まりますので、併せて見学されることをおススメいたします(^^)


最後までお読みいただき、ありがとうございました
感謝してます

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